「合掌造り」とは、五箇山・白川郷地方に特色的に見られる60度の
急勾配の切妻造り・茅葺き屋根の民家で、屋根が両手を合わせた
合掌の形になっていることから、その名がついたとされている。
合掌造りを一般的に定義すると「小屋内空間を積極的に利用するために、
叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」である。
一般的な民家に比べて柱や梁等の部材が太く貫を密に入れるなど、
全体的に堅固に造られており、大きな屋根と積もる雪の荷重に
耐えれる構造となっている。
帳台構(ちょうだいかまえ)
オエとチョウダを区描する板壁構造入口部分の壁面のことで、敷居を一段高くしてあり、
部屋に入るには跨いで入るかたちとなっている。
「オエ」は囲炉裏が切ってある家居間的空間で、「チョウダ」は家長夫婦の寝所。
ちょうな梁り(チョンナバリ)
釿(ちょうな)の柄の形に似た曲梁のこと。
斜面に生える樹木は雪などによって根元が曲がり、自然の力に耐えて丈夫なので、
合掌造りの梁として使われている。
一文字棚
中のでいに面して一文字の床棚が設けてあり、初期の書院造の様子が残っている。
ハネガイ(筋かい)
スジカイの一種で、バネのような役割をして地震や風に対して有効な働きをする。
屋根面を対角線上に縫うようにしてして弓なりに渡して用いる。
合掌屋根全体に剛性を高め、横からの衝撃荷重に対して柔軟に対応でき、
地震や風に対して有効な働きをする。
煙硝まや
火薬原料(硝酸カリの結晶)を作るための山草を腐らせる第一段階の作業場。
土と山草、蚕糞を入れて切り混ぜ作業をすると、バクテリアの働きで塩硝培養土ができる。
塩硝といわれる火薬原料の生産地として加賀藩の
重要な役割を担っていたのが五箇山である。
藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、
幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山は、
豊富な塩硝を製造するための好条件であった。
300年以上にわたって続いた塩硝製造は、水田のない土地柄ゆえに
五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに
全国随一であったと云われてる。
江戸時代加賀藩は、政治犯などの罪人を能登(石川県)や五箇山地方に流刑人として送っていた。
五箇山地方は庄川東岸が断崖絶壁に隔離されいたことから、流刑の好適地として
多くの流刑人が送られてきたのである。
田向集落にある流刑小屋は、昭和38年の大雪で倒壊してしまい、同40年5月に復元された。
當社は白山菊理媛命を主神とし、諏訪大明神、宇佐八幡宮をも祀る。
傳える所に依れば、元正天皇の御宇養老年間(717ー723)泰澄大師により、
人形山山頂に勧請され、後、天治2年(1125)3月、村の市郎右エ門の夢枕に神託を受け現地に
移し鎮めたといふ。本殿は、後文亀2年(1502)に建てられ、一間社流れ造りと称する様式であり、
その虹梁、木鼻、蟇股等はその時代の特徴が見られ、縣下最古の建造物として、
昭和33年5月、国指定重要文化財となる。
當地方は山深く、長く平野部と隔絶された秘境であった為に、
山岳信仰、神佛習合の遺風が温存されていた。
神楽舞、こきりこ唄等古民搖も伝承され、今も春秋の二大祭に神前に奉納される。
五箇山の上梨地区にある白山宮本殿の鞘堂。入母屋造茅葺妻入、軸部は角柱に絵様肘木を載せ、
軒はせがい造とし、正面を虹梁と蟇股で飾る。内部は土間の内陣に本殿を安置し、
外陣は板敷で格天井に天井絵を描く。豪雪地帯における信仰形態を反映した宗教施設。